公開から20年以上経った今も色褪せず、不動の人気を誇る『ショーシャンクの空に』。驚きのラストに繋がる伏線の数々や心を揺さぶる人間ドラマなど、何度観ても新しい発見があり楽しめる作品としてファンも多い作品です。今回は、そんな今作への感想を交えながら、伏線や謎を考察してみたいと思います。
記事の目次
実話ではない?原作はスティーブン・キングの小説
今作について勘違いされやすいのが、実話を基に製作されているのではないか?という点です。モーガン・フリーマン演じるレッドの回顧録のようなスタイルで物語は進んでいき、刑務所内での描写も妙にリアルで鬼気迫るものがあるため、実在する刑務所で起きた事件を基に製作された作品だと勘違いする方も多いようです。
しかし今作には原作があります。それが、スティーブン・キングの中編小説である『刑務所のリタ・ヘイワース』(『ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編』に収録)です。今作を鑑賞された方なら分かると思いますが、このリタ・ヘイワースというのは1940年代に活躍した女優で、主人公アンディーの房に貼ってあった彼女のポスターのことを指します。このポスターが大きな伏線となってくるわけですが、それについてはまた後ほど・・・。
原題『The Shawshank Redemption』の意味とは?
さて、スティーブン・キングといえば映像化作品がとても多い作家で、今作はその中でもかなりの人気作ですが、今回は原作を度外視して進めていきたいと思います。原作とは異なる点がいくつかあり混乱を招く可能性があるのと、映画と小説では違った世界観があるため、今回はあくまで映画『ショーシャンクの空に』について考察していきます。
ちなみにタイトルが『刑務所のリタ・ヘイワース』にならなかった理由としては、リタ・ヘイワースの伝記映画だと勘違いして彼女の役を志望する女優が多かったからだと監督が後日談として語っています。
また、原題も知っておくと今作をより深く理解できるかと思います。原題である『The Shawshank Redemption』の“Redemption”は「贖罪」という意味を持ち、この「贖罪」が使われているのがアンディーに対してなのか、もしくはショーシャンク刑務所そのものに対してなのか、はたまた刑務所内の全員に対してなのか。そこの考え方ひとつでも今作の印象は違うものになってきます。それでは、前置きはこのくらいにして内容に触れていきたいと思います。
ネタバレ注意!『ショーシャンクの空に』の伏線を解説
ラスト30分で全てが明らかになる
“衝撃のラスト〇分!”という謳い文句は映画の予告などでよく目にしますが、今作のラスト30分には本当に驚かされます。それまでの鬱屈とした描写からガラリと世界が変わり、初めて鑑賞した時は「そう来るのか!」と膝を叩きたくなったほどです。
そう、あの脱獄です。もちろん今作の主軸は脱獄にあるわけではありませんが、やはりこの場面を語らずに今作を語ることはできません。何がすごいって、それまで脱獄する素振りを一切見せていないところです。2回目以降の鑑賞では脱獄に向けた伏線に気づくことができますが、最初は単純にヒューマンドラマとして楽しんでいたので驚かされました。
ポスターやハンマー等の用意周到な伏線
さて、その脱獄に向けた用意周到な伏線の数々について。まずは前述のリタ・ヘイワースのポスターです。言うまでもないですが、このポスターは脱獄用の穴を隠すために貼られていました。アンディーがすごいのは、リタ・ヘイワースだけではなくその時期に合わせた女優のものにポスターを変え、また、他にも写真を何枚も貼り、刑務官たちの頭に「そういうヤツなんだ」と植え付けたところです。刑務官たちの目を逸らし印象を操作して19年間も穴を隠し続けたわけです。
そしてその穴を掘ったのがロックハンマーです。脱獄の穴掘りに使うのでは?とも思えそうな物ですが、実物はかなり小さくとても穴掘りに使えるような代物ではなく、彼自身もレッドに調達を依頼する時には趣味の鉱物を砕くのに使うためだと説明します。実際彼は鉱物を集めてチェスの駒などを作っていました(ここでも刑務官たちの印象を操作しています)。そしてそれと同時進行で穴も掘っていたわけです。
彼が愛する地質学の核心である「圧力と時間」を利用して、普通は穴を掘れないような小さなハンマーで、普通なら心が折れそうになるような長い時間をかけて、少しずつ少しずつ穴を掘り続けていたのです。
アンディーが持つ才能と明かされない謎について考察
アンディーが隠し続けた真の才能とは?
脱獄についてもう少し。アンディーがロックハンマーの隠し場所として選んだのが、聖書でした。所長が何よりも重んじる聖書の中身をくりぬいて脱獄用のハンマーを隠すというのがまた皮肉が効いています。彼は聖書の内容も暗記し、神を信じる従順な羊のような印象を所長に与えました。そして銀行員時代の経験を活かして刑務官たちの税務処理や資産運用を行って信用を得ていき、ついには所長の裏金を管理する役割まで担うようになったのです。
最後にはそれすらも利用し、所長のマネーロンダリング用に作った架空人物の口座の大金をアンディーが手に入れます。脱獄後の資金の調達まで行うなんて、用意周到が過ぎます。能ある鷹は爪を隠すとはまさにこのことで、彼は経験によって積んだ能力を活かしつつも、もっと奥底にある真の才能をずっと隠していたのです。
アンディーは本当に無実なのか?
そしてここからが劇中では明かされなかった謎、アンディーは本当に無実なのか?という疑問についてです。彼は終始無実を訴えていましたが、実際のところは不明なままです。彼が無実であるという証拠がありませんし、妻と不倫相手を殺す動機があります。トミーとの会話の中で真犯人らしき人物の話も出てきますが、彼の殺し方と、実際に発見された時の遺体の状況には差異があります。真犯人らしき人物は「男が起きて邪魔をしたから殺した」と語っていますが、発見時の遺体は「抱き合って死んでいた」と説明されています。
この謎が明らかにされないまま物語が終わったのは、脱獄同様に、それが今作の主題ではなかったからです。仮に彼が犯人だとしても、その罪を贖った事実に変わりはありませんし、本当に無実だとしたら彼が信じる「希望」という言葉の持つ力強さがより伝わってきます。
ちなみに筆者は、アンディーが犯人なのではないかと考えています。だからこそ彼のそれまでの人生は描かずに、刑務所に入ってからの人生に焦点を当てたのだと思います。そういった点でも、やはり今作は2回3回と観れば観るほど受け取る印象が変わり、色々なことを考えさせられる作品だと感じることができます。
驚きだけではない!感動を呼び起こすヒューマンドラマ要素
苦境の中でも希望を捨てない姿に胸が締めつけられる
やはり今作の主題となるのは刑務所を通して描かれるヒューマンドラマの要素ではないでしょうか。無実を訴える男が刑務所に入り、死を選ぶ方が楽だと思うような苦境に立たされても、どこにあるか分からない希望を信じてただひたすらに耐え忍ぶ。そんなアンディーの姿を通して刑務所内の人間模様が描かれ、そして刑務所そのものの存在意義を問いかけられ、フィクションとは理解していてもどこか割り切れないものを感じ胸が締めつけられます。
世間体は厳格な刑務所の皮をかぶっていても、その内情は悲惨なものです。暴力は黙認され、所長は刑務所を私物化し、逆らえば僅かな希望も打ち砕かれる。そんな中でもアンディーが耐えられたのは脱獄計画があったからなのか、それとも単純に希望を持ち続けていたからなのかは定かではありませんが、一つだけ言えることは、彼は決して希望を捨てなかったということです。
希望を持つということは、それがないと知った時の絶望も表裏一体で存在しているということです。特に刑務所ともなれば、超えることのできない壁に囲まれ希望は程遠く、絶望が訪れる可能性が高い場所です。そんな中でも彼は希望を持ち続けていました。この希望こそが、今作が最も伝えたかったものではないでしょうか。「希望はいいものだよ。たぶん最高のものだ。いいものは決して滅びない」というアンディーの言葉が示すように。
惹きつけるティム・ロビンスとモーガン・フリーマンの存在感
作品自体にも惹きつけられるものがありますが、ティム・ロビンスとモーガン・フリーマンの存在感も劣らないくらい惹きつけられるものがあります。たとえ特殊メイクを施しているとしても、同じ人物の約20年間を演じることは並大抵のことではないと思います。もちろん彼らはプロなので当然のことなのでしょうが、若さをにじませていたアンディー(ティム・ロビンス)の背中から徐々に漂ってくる哀愁を見ていると、本当にその人物の人生に触れているような錯覚に陥ります。レッドを演じたモーガン・フリーマンに関しても、冒頭で必死に仮釈放を望んでいた彼がアンディーと出会ったことにより変化していき、最後には考え方だけでなく目つきまでもが変わっているあたり、もう感服するしかありません。
劇中では2人だけでの会話のシーンがいくつかあるのですが、その会話の中で彼らが発する言葉の一つ一つにも説得力があり、この2人だからこそ成り立っているように感じます。受刑者であり、友であり、そして一人の人間である2人の姿を等身大で、なおかつ現実味を帯びて演じた2人の存在があるからこそ、今作の持つメッセージをストレートに受け取ることができたような気がします。
映画のラストに出てくる「アレン・グリーンを偲んで」とは何か?
鑑賞後、「アレン・グリーンを偲んでって何?」と感じる方もいるかと思います。今作だけでなく映画のエンドロール前後で「〇〇を偲んで」という文言をたまに目にすることがあると思いますが、これはその作品に携わったにもかかわらず完成前に他界してしまったスタッフや出演者、原作者などの関係者に向けられた言葉で、「遠く離れていった人(この場合は死者)を想い慕う」というような意味を持ちます。
そして今回のアレン・グリーンは、監督であるフランク・ダラボンの友人でありエージェントでもある人物のことを指しています。ちなみに今作を実話だと勘違いされる方で、このアレン・グリーンがアンディーのモデルになった人物だと思う方もいるようですが、違いますので念のため。今作は刑務所の存在意義や人間が持つべき希望を描く1本であると同時に、フランク・ダラボン監督が友人のアレン・グリーンに捧げた1本でもあるのです。“人間”というものを描く作品だからこそ、監督は亡き友人の名前を挙げたのではないでしょうか。この2人の関係性がアンディーとレッドの関係性と通じるものがあったら素敵だなと余韻に浸りつつ、エンドロールを眺めるのもいいかもしれません。