差別というテーマをSFで描く!?映画『第9地区』を考察





2009年製作の映画『第9地区』は南アフリカを舞台に、難民化してしまったエイリアンたちと人類の共存を描いた作品です。SF映画というルックスではありながら、「差別」というテーマの本質を浮かび上がらせるという、社会的な問題意識の込められた作品になっています。

新人監督が手がけた大ヒットSF映画

上空に突如、巨大UFOが出現!?


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1982年、南アフリカ共和国のヨハネスブルグ上空に突然超巨大な宇宙船が出現する。人類は宇宙船に乗っていた瀕死状態のエイリアンたちを地上に難民として受け入れることを決定。以降28年間、人類とエイリアンの歪な共存関係が続く事になる…。

2009年に製作された映画『第9地区』は、当時全く無名の新人監督ニール・ブロムカンプが長編デビュー作として撮った作品です。今作は長編デビュー作にも関わらず、高い評価を得ることになり、以降彼は新時代のSF映画を担う存在として注目されています。

ブロムカンプ作品の魅力とは?

この監督の作品の大きな魅力は登場する兵器やロボットのデザインにあります。今作に登場するものとしては、映画のラストにヴィカスが搭乗して敵を粉砕するパワードスーツや、圧倒的な破壊力を持ったレーザー銃など、未だかつて見たことがない、でももし現実に存在するとしたらこの形だろうな、という説得力のあるデザインのメカたちが登場し、SFファンのオタク心をくすぐってくれます。

映画冒頭の見事な演出手法

客観視点から主観視点への鮮やかな移り変わり

映画の冒頭、ニュース番組らしき映像でこれまでの人類とエイリアンの共存への歩みが示されていきます。現代的なニュース映像によって、この共存の問題がまさに現実の世界で起こっているような感覚にさせられます。

このニュース映像は複数の人物のインタビュー映像から構成されており、その中の一人が今作の主人公であるヴィカスです。彼は一見、普通の人物として描かれていますが、カメラは彼の任務に同行するようになり、そしていつの間にかこの映画のカメラはヴィカスの主観と一致していきます。

エイリアン側の主人公であるクリストファー・ジョンソンも、最初はエイリアンの中の一匹として描かれていたのが、少しずつ彼がエイリアン側の主人公であることが分かるという流れになっています。

この客観的な映像から主観的な映像への移行は、初見時には境目に全く気づけないほどスムーズに行われます。さらにこの移行は後述しますが今作のテーマ性とも密接に関わっており、映画冒頭の一連の流れは、今作において最も構成が上手な部分と言えるでしょう。

エイリアンの造形の狙いとは?

エイリアン側の主人公、クリストファー・ジョンソンの登場まで、エイリアン側に共感できる存在がいないため、我々観客はこのエイリアンたちを完全なる「他者」として捉えることになります。更に、この他者感に拍車をかけているのがエイリアンの造形です。エビが二足歩行で歩いているような彼らの姿は正直気持ちが悪く、観客の嫌悪感を沸き立たせる造形になっています。

嫌悪感が起こる造形は、映画の作り手たちが意図的に狙ったものであり、これも映画のテーマと関わっています。この嫌悪感から発生する問題こそ「差別」です。映画『第9地区』は人類とエイリアンの共存というSF的なメタファーを用いて、「差別」という問題を描いています。

今作のテーマは「差別」

冒頭の映像が示す「差別」の残酷さ

映画の冒頭で、ヴィカスはMNUが行うエイリアン移住計画の代表者となり、彼は悪戦苦闘しながらもエイリアンをあの手この手で立ち退きの契約書にサインさせていきます。ヴィカス及び彼の周囲の人物たちはエイリアンたちを知能の低い存在として見ており、彼らを脅したり騙したりすることに全く抵抗を感じません。そして人間に逆らったエイリアンを銃殺したり、小屋で見つけたエイリアンの卵を火炎放射器で火炙りにしたりなど、一方的な支配関係にあることがわかります。

もし、ヴィカスたちが行っているこれらの行為が全て人間に向けられていたら、彼らの行為はとんでもないこととして非難されていたでしょう。しかし、今作では人類とエイリアンというフィクションのため、ヴィカスたちの行為が残虐な行為であることは全く観客には感じさせません。むしろ、エイリアンが放つ嫌悪感が相まって、ヴィカスたちの行為を肯定しやすい流れにもなっています。

繰り返される差別の歴史

そもそもこの映画の舞台であるヨハネスブルグと言えば、アパルトヘイト政策が行われた場所でもあり、「差別」という問題を否応なく浮かび上がらせます。劇中に出てくる「エイリアン立ち入り禁止」の看板や、人間がエイリアンを「エビ」という蔑称で呼んでいる点なども全て、アパルトヘイト政策が行われてきた1994年まで南アフリカにおいて異人種間で行われてきた差別行為です。

ヴィカスは謎の液体を浴びたことにより、次第に身体がエイリアン化していきます。これにより差別する側からされる側へと立場が変わるのですが、この展開によって観客が映画冒頭のヴィカスたちの行為がエイリアンに対して残虐な行為であったことに気づかされる、という作りになっています。

キリスト教における「隣人愛」とは?

キリスト教的なモチーフに注目!

今作にはいくつかキリスト教的なモチーフが登場します。まず出てくるのはエイリアン側の主人公、クリストファー・ジョンソンの名前です。劇中のエイリアンたちの住所はアルファベットと数字の組み合わせで表記され、彼らは個人名では全く呼ばれませんが、クリストファーはしっかりとした名前を持ち、ヴィカスたちと対等に会話します。

聖クリストファーも、ジョンソン(Johnson)という名前の元である聖ヨハネも、共にキリスト教における聖人であり、主人公クリストファーを「エイリアン」という枠ではなく、どこか高潔な一個人として見るきっかけとなっています。

このクリストファーは上空に漂う母艦へと戻るために小型宇宙船を直しているのですが、この宇宙船の造形が、上から見るとはっきりと十字架の形になっています。母艦の下側に十字架の形の空洞があり、そこにこの小型宇宙船がピッタリと入って行くシーンは、どこかキリストの昇天のようなイメージを思い起こさせます。

クリストファーはヴィカスに「3年後に戻ってくる」と言いますが、これもはっきりとキリスト教的なモチーフです。「3」という数字は「三位一体」を表しており、キリスト教においては聖なる数字とされています。クリストファーが地球を離れて3年後に再びヴィカスに会いに戻ってくる、という流れは、キリストが処刑されてから3日後に復活するという流れとも重なります。

「差別」を乗り越えるための「隣人愛」

SF的なメタファーと視点の移り変わりによって、「差別」という問題の本質を浮かび上がらせているという点だけでも十分評価されるべきですが、今作は更にその問題を乗り越えるためにはどうすれば良いか、というところまで描いています。

キリスト教の中で最も有名な教えは「隣人愛」です。自分ではない他者を尊重し愛するという精神こそが差別という問題を乗り越えるために必要である、ということを示すために今作ではキリスト教的なモチーフが頻出するのです。

「人類とエイリアン」という大きな枠組みではなく、「ヴィカスとクリストファー」という個人と個人がお互いに対して「隣人愛」を持つことが出来た時に、初めて彼らの間の差別意識は無くなります。映画の冒頭で客観視点から主観視点へ移行していったのは、まさにこれを示しています。

英雄となったヴィカス、ラストの意味とは?

16世紀のスペインの宣教師ラス・カサスは、ラテンアメリカにおいてスペイン人が原住民に対して行った奴隷制度の残虐性を『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で明らかにさせ、これの廃止を求めました。この書は大きな反響を呼び、彼は反スペイン的として非難されましたが、彼の死後19世紀のラテンアメリカ独立運動ではラス・カサスは運動を象徴する英雄とされました。

今作におけるヴィカスも、自分の周囲の人間たちに逆らって、エイリアンであるクリストファーを助けます。彼が行った行為は劇中の人間たちからは非難されており、彼の英雄的な行為が正当に評価されるのはもっと時間が経ってから、それこそ3年間以上かかるかもしれません。しかし、3世紀経った後にまでインディオから英雄とされたラス・カサスのように、ヴィカスの英雄的行為はエイリアンたちにとって永遠に語り継がれる伝説となったのです。

映画のラストにエイリアン化する前のヴィカスの映像が入り、彼はどこにでもいそうな普通の人であることを観客は再認識させられます。彼が行う英雄的な行為は、普通の人、つまり我々観客でも行うことが出来る、というメッセージを残してこの映画は幕を下ろすのです。

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