近代映画に転換期を与えた傑作『ダークナイト』の感想と考察





アメコミ原作映画らしからぬトーン、人間の真理を突くストーリー、合理的なアクションシークエンスなど、挙げたらキリがないほど、それまでのどの部類にも属さない作風を確立した『ダークナイト』。今回は、近代映画に大きな影響を与えたそんな今作を、感想を交えながら考察してみたいと思います。

物語はすべて二面性から始まる『ダークナイト』


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この物語には、大富豪ブルース・ウェインと正義の象徴バットマンという、主人公が持つ二面性が大前提としてあります。そしてそれを筆頭に、誰もが持っている表と裏が、今作を観るうえでとても大事なポイントになっています。

後に顔の半分が焼けてトゥーフェイスとなるハービー・デントのもう一つの顔、彼が持つ両面表だったコインの片面が焼けて出現する裏面、善人面をしている人々からジョーカーが引き出そうとした人間の醜い本性など、あらゆる二面性を前面に押し出し、観客の心の奥底に訴えかけます。

そして、立場上は正義と悪であるバットマンとジョーカーを表裏一体で描くことにより、観客が持っている善悪の概念さえも揺るがしてきます。尋問のシーンでジョーカーがバットマンに言う、「あんたが俺を満たしてくれる」「あんたも俺と同じ怪物だ」というセリフは、今作を象徴する言葉のように感じました(この尋問のシーンがたまらなく良かった)。

世界が燃えているのを見て楽しむジョーカーと、自己犠牲により人々を救おうとするバットマンがなぜ同じなのか?そこで描きたかったものこそが、人間が本質的に持つ二面性ではないかと考えています。

善悪に境界線はあるのか?

秩序なき秩序をもたらす混沌の使者・ジョーカー

ほとんどのヒーローものの映画では、悪役が犯罪行為を行うようになったきっかけや過去が描かれ、ヒーローと対峙した時の立場の違いや善悪の境界線が明確にされています。その方が観客にとっては分かりやすいですし、そもそも一般的に認知されている善悪というものの概念が反映されているからです。

今作は、この悪役の描き方という点においても、他作品とは一線を画していました。どこからともなく現れ自らを「混沌の使者」と呼ぶ“その男”は、まるで玩具を与えられた子供のように銃器を扱い、殺人・放火・強盗といったあらゆる犯罪行為をただひたすらに、純粋に楽しみます。その姿は神話に出てくる悪魔そのもの。

私たちは悪魔の存在理由も目的も知りませんが、ジョーカーはまさにその悪魔のように描かれています。彼の過去などは決して明かされず(顔の傷の話を披露するが嘘か本当かも分からない)、不気味な笑みを浮かべながら人々の秩序を破壊し、混沌という秩序なき秩序をもたらします。

このように、ジョーカーは人々の、そして正義の象徴であるはずのバットマンの奥底に潜む悪魔として描かれ、善悪の境界線すらも曖昧になっています。何が善で何が悪なのか?私たちが持っている概念の脆さが今作で暴かれます。何にしても、ヒース・レジャーが演じたジョーカーのカリスマ性は他の追随を許さない圧倒的なもので、本当に興奮しました。

正義を貫き正義に支配された男・トゥーフェイス

闇に紛れて犯罪者を制圧してきたバットマン=ブルース・ウェインは、自らの活動がいずれ限界を迎えることを感じ始め、悪に正面から立ち向かい素顔で闘う検事ハービー・デントこそが正義の象徴としてふさわしいと考えるようになります。

ハービーは自身の命を顧みずに正義を貫き、街を平和に導くために奮闘します。しかし、その強すぎる正義感は小さな破綻の積み重ねでやがて行き先を見失い、ついには自らが行使していた正義に支配されるようになります。そのきっかけを与えたのが、ほかでもないジョーカーです。

バットマンとハービーが共闘していることを知ったジョーカーは、バットマンの望みを奪うことを企みます。ハービーとレイチェルを誘拐して別々の場所に監禁したジョーカーは、どちらかが死ぬ結末を用意します。レイチェルが死ねば復讐に燃えるハービーが闇に堕ち、ハービーが死ねば街の希望が失われる。どちらにしてもバットマンが敗北を味わう結末です。